先日、日本化学会関東支部山梨地区講演会の講師として登壇し、主に学生向きに研究紹介をする機会を得た。自己紹介のときに「甲府には単身赴任をしていて、24時間がすべて『自分の時間』で充実している」という言葉が口からふと出た。そして『自分の時間』とそうでない時間は何が違うのか、改めて考えている。
講演のときには「今こうやって講演の仕事をしているのは『自分の時間』だけど、子育てや家族のための家事をするのは『自分の時間』ではない。それはやったことが自分に還ってこないから」と喋った。つまり、最初に答えを言ってしまうと、「自分に還ってくるかどうか」が私の考える『自分の時間』の核心なのである。外で働いているときが『自分の時間』であって、家にいるときが『自分の時間』ではない、というのはちょっと不思議な気もするが、私にとっては脳髄反射的な分類でそうなる。常々「ワークライフバランス」という言葉には違和感があり、その違和感はきっとこの分類の仕方と同じところに根源がある。
好きなことを自主的にやっているときが『自分の時間』で、そうではなく他人から依頼されるなどして仕方なくやっているときが『自分の時間以外』かというと、必ずしもそうではない。指導している学生の投稿論文の添削は、それをやらないと学生の修了に響くし、せっかくやった研究成果を世に出すためには、それをしなければならないから、仕方なくやっている。決して論文添削が好きだからやっているわけではない。正直面倒だし、イライラすることもあるし、省けるものなら省いてしまいたい。だけど、この作業をやっているときは『自分の時間』である。
そう考えると、一昔前の専業主婦がサラリーマンの夫に「あなたはいいわよね」と感じたのはきっと、この私が定義する『自分の時間』を持てていると思っていたからで、逆に夫が「お前はいいよな」と感じたのは、家にいて上司など他人の干渉なく使える時間のことを『自分の時間』と思っていたから、なのではないか。
ところで、「自分に還ってくる」とはどういうことをいうのだろうか。知識や経験として何かが身に付くことなのか、誰かから感謝されて将来の保険となるような人間関係が形成されることなのか。まだ自分でも明確な答えを出せていないが、前者は70%くらいの要素だが、後者は10%くらいの要素でしかないように思う。残り20%の要素が何なのか、そもそも「自分に還ってくるかどうか」が『自分の時間』の定義でよいのか、もう少し考えてみたい。
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