2023/03/19

実学と虚学

昨日、京都大学農学部生体機能科学研究室の同窓会で聴講した、信州大学の巽 広輔 教授のお話がとても面白かった。黒板の真ん中に縦に1本、線を引き、左に「実学」、右に「虚学」と書き、巽先生が学生時代、教養部化学教室の堀智孝先生から「虚学を大事にしなさい」といわれた、という話から始まった。左、すなわち実学に相当するのは「工学」、右、虚学に相当するのは「理学」。この対立軸の左右は、ApollonとDionysus、秩序と創造、安定と破壊、保守と革新であり、ドラえもんとのび太でもある。ドラえもんだけでものび太だけでもお話にはならず、両者がせめぎ合い、complementaryに補い合ってこそ成り立つ。PlanckとEinstein、古典派とロマン派、ともいえる、という話から、生体機能科学研究室のもうお亡くなりになられた古い先生から現役の先生、研究室出身者、研究室と近しい先生らについて、思い出やお人柄を語りながら、どの先生はどちらの人、その弟子のどなたは、師匠への反発からか、こちらの人、というような話をされた。どちらが偉い、ということではないが、Hegel(でなかったかも)は、Apollon(左)が非独立、Dionysus(右)が独立、という意味で、Dionysus(右)の方が偉い、と言ったそうだ。啓蒙と信仰、homme civil (公共人)とhomme naturel (自然人)、社会のために生きる人と自分のために生きる人、でもある。General (大将)とは左右いずれも行き来できる人。Apollonの仮面を被ったDionysus、Dionysusの仮面を被ったApollonもいるし、一周回って別の性質が、という方もいて、必ずどちらかに完全に分類できる、というものでもない。

私は完全にApollonで、子供の頃はDionysus的な男子の行動を全く理解できなかった。「なんでみんな先生のいうことをきかないんだろう。こういう迷惑な人たちは、いなくてもいいのに。」と(そこまで深刻に「いなくなっちゃえばいいのに」というほどではないが)考えながら。夫はDionysusで、同じくDionysusの男の子を育ててみて、ようやく、夫を含めたDionysus的「男子」の行動原理が何となくわかった。Dionysusは大事にしなければならない、ということも。そして、昨日の講演を聞いて、なんやかんやでここまでこられたのは、complementaryだったからなのかとも思った。

ドラえもんとのび太に代表されるように、ApollonはAI的でDionysusは人間的とも言えそうな気がする。ゼロからイチをつくるのは、Dionysus。AIが台頭する世の中、四半世紀前に堀先生が巽先生に仰った頃よりさらにDionysusを大事にしなければならない時代に来ているようにも思う。「社会のために生きる人」ではない「自分のために生きる人」を。研究費の配分も「社会に役立つ研究」に偏らず「興味としての研究」に投資することが、結果として国のため、人類のためになるのではないだろうか。

巽先生の話の一番のキモは、「両者がcomplementaryに補い合ってこそ成り立つ」というところ。後の宴会で聞いたところ、この話は実はSDGsの講義をするときに、持続性と発展性が相互に補完しあわないといけない、と言うときに使う話が下敷きになっているとのことだった。私は「持続的に発展」なんて虫のいいことができるわけない、と思っていたので、こういう優しくポジティブなSDGsの解釈の仕方もあることはちょっとした発見だった。もし、講義でSDGsをポジティブに話さないといけないときは、ぜひ使わせていただこうと思う。

2022/12/13

中央公論新社『科学と芸術』の感想と、科学・芸術・宗教・旅の共通点について

 研究員の久保田君から中央公論新社の『科学と芸術』という本を半年くらい借りたままになっている。そろそろ返さねばと思い、感想を聞かせてほしいという方もいたので、ざっと読んで感想を書くことにした。本書は2022年出版で、2018年出版の『科学と宗教』、2021年出版の『科学と倫理』と合わせた「真善美」の三部作の掉尾を飾るものである。

 一番面白かったのは、最初の千住博氏(日本画家)と酒井邦嘉氏(言語脳科学者で三部作のもととなった討議の場である科学隣接領域研究会リーダー)の対談だった。芸術とは何か、科学とはどういう関係にあるのか、ということが対談形式にもかかわらずかなり論理的な展開で書かれている。
・芸術は普遍的であると同時にサイトスペシフィック
・芸術はこの世界を把握しよりよく生きるための手段。科学の始まりもおなじ。
といったあたりが心に残る中心的テーマだった。
・芸術はインスピレーションではなく経験とイマジネーション。経験していないことは想像できない。知らないことに人は感動できない。
・芸術も科学もすべての人が等しく使えるもの(誰かの所有物ではない)
・芸術は図らずも不完全。完璧なデジタル化社会でも、不完全な人間の営みを尊重しなければならない。
ということも心に残った。

 その他は、各論というか、例えばベートーベン、南方熊楠、ゲーテ、能、建築、庭、といった核となる人物や芸術があり、その人物や芸術にかかる芸術性と科学性の関わりのようなことが論じられている章がほとんどだった。それぞれはそれぞれに面白いのだと思うが、私の少ない知識と経験では消化しきれない感じがあった。とはいえ「曼荼羅」や「能」といった多少でも触れたことがあるテーマについてはなるほどと思うこともあったので、経験すること、考えたことがあること、というのは物事を理解するのに重要であると改めて思った。学生が1-2年次に講義を聞いても何のことかさっぱりわからないのと同じで、自分の手で実験して研究に携わるようになってようやく、物事を深く考えられるようになる。

 その中で他と違っていたのは、「科学論の中の美と芸術―近代日本の見た「実在」」という章だった。明治維新から敗戦までの時期の日本で発表された科学論には、美や芸術について検討を加えたものが少なくなく、それは、実在に関する議論を含んでいるから、ということについて、何人かの代表的なこの時期の学者を紹介しながら書かれていた。しかしこれも私には難しすぎて理解できたとはとてもいえない。

 もうひとつ私が興味を惹かれたのは「理学・工学・アート・デザインとウェルビーイング」という章だった。以前に聞いたMITメディアラボの伊藤穣一氏の講演で「Krebs Cycle of Creativity」の図が示され、Art・Science・Engineerin・Designの性質と関係性について述べられていた。本書でこれはMITのNeri Oxmanによる図で、それ以外にも複数の人が複数のモデルを提唱していることを知った。それぞれに面白いモデルだと思った。

 次は山梨県立図書館にある『科学と宗教』を読んでみたいと思う。今、旧統一教会と政治の関係が大きな問題となっている。宗教は本来的には「世界と私たちの関係」を知ってよりよく生きようとする手段であり、それは上述の科学や芸術と同じであるはずなのに、人をコントロールするのにもってこいの手段でもあるため、往々に政治利用されてきた歴史がある。

 ここまで考えて、あれ、ちょっと待てよ、と思った。「世界と私たちの関係を知る手段」について、15年ほど前にNHKの視点論点で若手写真家の石川直樹さんが次のようなことを言っていた。「“自分探しの旅”という言葉を耳にするたびにぼくはむずがゆいような違和感を覚えます。この場合の目的地は外界ではなく、自分の内面へと向かっているからです。本来の旅とは自分を変えるために行うものでも癒しのために行うものでもなく、自分と世界との関係を確かめ、身体を通して自分がいま生きている世界について知る方法ではなかったのでしょうか。」なぜこれを覚えていたかというと、東北大学での学位授与式の答辞で、この話を引用したからである。その時には、「知識を得ることによって、知らなければ気がつくことのできなかった世界に出会うことができるということを、紆余曲折を経て社会人博士課程で勉学を進める中でそのことにようやく気がつくことができた」という文脈で引用した。しかし、今、『科学と芸術』を読んだ後で改めて考えてみると、科学そのものが「世界と私たちの関係を知る」ための手段ではないか。そしてそれは、芸術も同じ、宗教も同じ、旅も同じ。人間として生きて活動して考えていることそのものが、世界と私たちの関係を知り、よりよく生きようとする営みに他ならないといえるのではないか。


2021/12/21

同窓の若手研究者の活躍

 同窓の若手研究者の講演2件を聞くセミナーに出席した。国内外で研究を頑張り、独立に向けて成果を出している様子にとてもエンカレッジされた。

 企画してくれたのは同窓現役の社会人D3。彼女は修士の学位を取得して就職した後、大学に戻ってきており、今春、博士の学位を取得する。その後もアカデミアに進むことが決まっている。修士学生時代に東日本大震災があり、そのときもNPOを立ち上げて復興支援に携わっていた。文武両道で賢さが人柄ににじみ出ていて行動力抜群で、年下ながら憧れの女性。彼女が大学に戻ってきたときに、私がモデルなっていたらしいことを間接的に聞いた時には、驚くとともにとても嬉しく思った。

 講演者の一人は米国の大学でPDをしており、近く独立を目指している。米国ではAssistant ProfessorでもPIとして研究室経営をする必要があり、そのための研究資金獲得競争は熾烈で大型予算の採択率は数%、獲得できなければ研究室がつぶれるとのこと。私もようやくPD雇用可能なレベルの国からの研究費と、財団からの研究費が採択になったところで、今後もしっかり頑張っていかねばと思う。

2021/12/11

『自分の時間』

 先日、日本化学会関東支部山梨地区講演会の講師として登壇し、主に学生向きに研究紹介をする機会を得た。自己紹介のときに「甲府には単身赴任をしていて、24時間がすべて『自分の時間』で充実している」という言葉が口からふと出た。そして『自分の時間』とそうでない時間は何が違うのか、改めて考えている。

 講演のときには「今こうやって講演の仕事をしているのは『自分の時間』だけど、子育てや家族のための家事をするのは『自分の時間』ではない。それはやったことが自分に還ってこないから」と喋った。つまり、最初に答えを言ってしまうと、「自分に還ってくるかどうか」が私の考える『自分の時間』の核心なのである。外で働いているときが『自分の時間』であって、家にいるときが『自分の時間』ではない、というのはちょっと不思議な気もするが、私にとっては脳髄反射的な分類でそうなる。常々「ワークライフバランス」という言葉には違和感があり、その違和感はきっとこの分類の仕方と同じところに根源がある。

 好きなことを自主的にやっているときが『自分の時間』で、そうではなく他人から依頼されるなどして仕方なくやっているときが『自分の時間以外』かというと、必ずしもそうではない。指導している学生の投稿論文の添削は、それをやらないと学生の修了に響くし、せっかくやった研究成果を世に出すためには、それをしなければならないから、仕方なくやっている。決して論文添削が好きだからやっているわけではない。正直面倒だし、イライラすることもあるし、省けるものなら省いてしまいたい。だけど、この作業をやっているときは『自分の時間』である。

 そう考えると、一昔前の専業主婦がサラリーマンの夫に「あなたはいいわよね」と感じたのはきっと、この私が定義する『自分の時間』を持てていると思っていたからで、逆に夫が「お前はいいよな」と感じたのは、家にいて上司など他人の干渉なく使える時間のことを『自分の時間』と思っていたから、なのではないか。

 ところで、「自分に還ってくる」とはどういうことをいうのだろうか。知識や経験として何かが身に付くことなのか、誰かから感謝されて将来の保険となるような人間関係が形成されることなのか。まだ自分でも明確な答えを出せていないが、前者は70%くらいの要素だが、後者は10%くらいの要素でしかないように思う。残り20%の要素が何なのか、そもそも「自分に還ってくるかどうか」が『自分の時間』の定義でよいのか、もう少し考えてみたい。

2021/11/08

パーキンソン病とプリオン病、アドルフヒトラー

 母のパーキンソン病が進んだ。実家に戻った時に、母の主治医である東北大学神経内科の長谷川隆文先生のZoom講演を両親と一緒に拝聴した。専門外の者にもパーキンソン病の全体がよくわかるご講演だった。その中で2点、心に残ったことを書きたい。記憶を頼りに記載しているので、誤っている点があればご容赦いただきたい。

1. パーキンソン病に見られる異常タンパクにはプリオン様の性質がある

パーキンソン病の患者の脳細胞には、「α-シヌクレイン」という健常な脳内にも存在するタンパク質が、「アミロイド線維」と呼ばれる異常な線維状態となって蓄積しているのはよく知られている。実は、脳での蓄積の前から、腸管の末梢神経で蓄積が確認されており、腸で発生したこの異常タンパク質が迷走神経を介して脳へと徐々に移動していき、パーキンソン病を発症させるという仮説がある。つまり、末梢神経に生じた異常α-シヌクレインがプリオンとして伝搬して、脳に到達して発症する、というのである。プリオンは2001年の狂牛病騒ぎで広く知られた「感染性タンパク質」であり、パーキンソン病が実はプリオン病かもしれない、というのは驚きだった。後で調べたところ、植物にもプリオンに似た働きを持つ分子があるらしい。プリオンはこれまでに知られていない生命現象を解明するカギになるかもしれないと改めて感じた。

2. アドルフヒトラーはパーキンソン病でありその治療法が違っていれば歴史が違っていたかもしれない

アドルフヒトラーは晩年、パーキンソン病を患っており、特有の手の震えを写した映像が残っている。ヒトラーの主治医は治療のためコカイン、アンフェタミン、ベラドンナアルカロイドを注射投与していた。これらの薬物を投与されていれば、精神に異常をきたすのも当然であり、ヒトラーのパーソナリティと考えられてきたことが実はこれら薬剤作用だったかもしれない。長谷川先生は、このことを、「医師が一人の患者に向き合う大事さ(時には歴史を変えることにもなる)」として学生さんに伝えているとのこと。私も「教員一人が学生に向き合う大事さ」と言い換えて心に刻みたい。

2021/05/23

学ぶということ

 先日、NHKラジオの『高橋源一郎の飛ぶ教室』で、「どんなことでも新しく知るのは楽しい」という話がありました。源一郎先生の還暦に近い友人がバイクの免許をとろうと教習所に通っていて、「情けなくて大変だけど、学ぶのが楽しいんですよ。学校に行くのは40年ぶりだから」と言っていたそうです。「彼は初心者の喜びをまた知りたくなったのだろう。年をとると新しいことを学ぶのが面倒くさくなる。新しいことを知らなくても生きていけるし、生活もできる。でもなんだか少しさびしくつまらない。どんなことでも新しく知るのは楽しい。小学校1、2年生のときに新しい教科書を開けたるだけでワクワクしたように。もっと小さいころは、雨が降った後の水たまりを見るだけで楽しかった。」

 学校で学ぶことは果たして楽しいでしょうか。学生時代、私は正直、学ぶことは苦痛でした。覚えないといけないこと、身に付けないといけないことがどんどん追いかけてきます。どんなおいしい食べ物もおなかいっぱいのときにぎゅうぎゅう詰め込まれれば苦痛なのと同じかもしれません。

 今年から、「基礎化学」の講義を持つようになりました。講義が始まる前にとったアンケートに、不安なこととして「化学は覚えることが多くて苦手」ということが書かれていました。私は、「大学では「覚えなさい」とは言わない。本質を知ることが大事。」と伝えました。そして3回の講義で、高校で「原子は陽子と中性子でできた核の周りを電子が軌道をもって回っています」と教わってきたことを、どういう経緯でそうと分かったのか、また、本当の原子の姿はどうなのか、という話をしました。2回目の講義の後のアンケートで「原子というものの存在がまだ明確ではなかった時に、実験から原子が存在することを確信したドルトンさんはすごい」と書いてくれた学生がいました。

 講義で教える、ということを考えるとき、是恒さくらさんという研究者でもあるアーティストが「芸術はそれを見る前と見た後で世界の見方が変わるもの」という話をされたことを思い出します。これは芸術に限らず、あらゆるプレゼンテーションにいえることで、講義もその一つのはずです。世界の見方がちょっとかわる、ということが学ぶことのワクワクの根源にあるのではないでしょうか。私の講義は果たして、それを聞く前と聞いた後で少しでも世界の見方が変わるものになっているか、そう思いながら、次の講義の準備を進めています。


2021/03/24

電気化学会 相澤益男先生特別講演

3日間にわたる電気化学会@ウェブが終了しました。
私が座長を務めた生物工学研究会の「温故知新セミナー」での相澤益男先生の特別講演には大変感激をしました。
「生物は汲めども尽きぬ創造の源泉」というフレーズを軸に、生物電気化学とは何であるのかという本質から、どのようにして生物に学び新領域を拓いていけばよいのかまで、大変分かりやすく講演してくださいました。

特に心に残ったことが2点ありました。

ひとつめは、「今後日本が世界に向けてリードすべき、できる強みの発想、領域などがあれば、若い人へのメッセージも含めて」という質問に「研究する人が夢中になるアイデア」というキーワードでお答えになり、「研究費を採るためのアイデア」には警鐘を鳴らされたことです。改めて考えればこの警鐘は当たり前のことですが、日々、研究費獲得にあくせくしている身には目が開く思いでした。研究費配分機関から応募のお題が出れば、いかにそれにマッチした申請書を書くかが重要で、採択されても本当にそれは自分がやりたい研究なのかどうか、ということはよくあります。このことを他の研究者に話したところ、アイデアを探す時間と金と余裕のない現状があり、その理由として
・PIはラボを維持するため、若手はポストを獲得するため、急いで拡大再生産の道に載らないと、競争に勝てない。
・学生もKPIの達成ばかり求められていて、指導する側も疲れる。
という問題を指摘されました。改めて日本の科学技術力の回復環境が整備されるにはほど遠いことを感じました。

ふたつめは、私の研究分野である「化学センサ」というコンセプトは日本から世界に発信されたものであり、IoT時代を迎え「生物に学ぶという発想」でセンサテクノロジ×DXによる大躍進が期待できる、ということでした。化学センサは物理センサと比較して実用化が難しく、特にバイオやヘルスケアへの応用が期待されながら、なかなか「次々にいろいろな製品が出る」というふうにはならない現状があります。このことに暗い思いを感じていましたが、先生の言葉に勇気をいただきました。ポイントとして話されたことは、電気化学にこだわらないこと、デバイスづくりだけに終始せず、どう応用するのか、という視点で考えること(本当に今問題なのはデバイスなのか?)、応用のために他分野の融合をすること、でした。頭では分かっていても、実践できていないことばかりです。